昭和46年12月25日朝の御理解
御理解第39節 此の方の行は水や火の行ではない、家業の行ぞ
大変難しいご理解ですね。四神様のお言葉に、信心せいと言うと、すぐ拝みだしますわい、というお言葉がありますね。信心せよ、というと、すぐ拝みだしますわい、と。
これは信心に限らずどのようなことも、上にでも、修行の伴わないものはない、修行の伴わないことはないと。必ず修行が伴う。
それが上達を図るというか、いよいよ、そのことを体得しょうとするならば、もう、それこそ生まずたゆまずの、修行が必ず必要です。
もうそれこそ一日だって欠かされないというのが、修行です。
もう行のごとあるという、ね、もうほんとに、この修行ということを、まあ、どんなに大事なことかということは、これはもう、ほんとにその道を体得しょうとする、者には、修行がおろそかになったら、もう、すぐにだめになる。
そこで、教祖は家業の行ぞ、と仰っておる。家業ならば、ね、誰も家業を持たないというものはありませんからね。ね、これは、いわゆる、一生が修行ということなんです。
だから、家業そのものが、修行ということ。
それをね、もっとこう、申しますと、どういうようようなところに焦点を置いて修行するのかと、ね、おたがいまあ、例えば百姓をしておる人、商売をしておる人、ね、まあ、様々な家業がございます。
そのほうを、ただ一生懸命に、それに取り組んで、いわゆる、がまだす、というかね、働くということではない。ね、いわゆるどこまでもこれは、信心修行なんですから。
ね、ただ一生懸命に商売をする、一生懸命に百姓をする、ね、それはね信心修行にはならんのです。
どこまでもこれは信心のみ教えですから。
その辺のところをね、間違えてある人があるですね。まぁ、一生懸命うちで、がま出すことが、一生懸命商売することが、金光様のご信心でいう、修行だから、とこういう。そんなら信心はなかっても、一生懸命、熱心に自分の家業に勢出しておるという人は沢山ありますよ。
ね、なるほど一生懸命に精進いたしますから、ね、それがお百姓で、野菜つくりであったら、野菜が見事に出来ましょう。商売でも熱心に、一生懸命いたしますなら、なるほど商売繁盛いたしましょう。
ここではね、商売が繁盛するようにとか、良い野菜が出来るように、ということじゃないのです。ここでの修行は。
家業そのものが、信心の修行じゃと仰っておられる。
ね、いわゆるそれが良くできるとか、それで良く儲かるとかいうことじゃないことを一つ、しとかんともう、根本的に、のところから、修行が間違うて来るです。
どこまでもここでは、三十九節は、いわゆる、信心の、お道の信心の、いわゆるまあ、修行観ですかね、お道の信心の修行というのは、かくいるということ、かくあらねばならないということ。
ね、商売熱心な人、仕事に熱心な人は、はあ、あんたんごと日参り、夜参り、金光様の信心はそげなこつが修行じゃないですよ、もう家業の行ちゅちゃるけん、もう、家業を一生懸命しさいすりゃ、もう、修行かと思いよる。そげな事では、絶対、お徳は受けんです。
ね、なるほど良い野菜が出来るでしょう。人より立派なものが出来るでしょう。商売なら、からがら人よりも繁盛するかもしれません。
ただ、ここでは繁盛するとか、ようできるとかそんなこっちゃなかって、ね、家業の行。ね、その取り組ませて頂いておる、いわゆる、家業の中からです、ね、どれほど有り難いものを頂くかということが修行なんです。
ね、ですから、たとえば、様々な家業を持っておる、例えばお百姓をしておる人がです、もう、百姓てんなんてん、ごげん、部の合わん仕事はなかと、もう親子の末まで、百姓はさせんと、もう私一代と、自分の仕事を、そういう人があります。ね。
商売しとってもそうです。もう、商売てんなんてん、もう、こりゃ、子供にさせるもんじゃね、もう子供がもう、後継がんなら、なんか、もう、ほかんこつさせてがええ、というようなことではもう家業の行にならんのです。
自分が頂いておる言うならば、天職、ね、神様が与えてくださった仕事、そのことをです、ね、もちろん熱心にすることは、もちろんですけれども、熱心にするだけではない、その仕事の中から、いかにどれほど、有り難く取り組ませていただくかという修行をするのです。家業の行とは。
私は今日、そこんところをはじめてこう、頂いてですね、あの、新たな、いわゆる、あの教組の、いわゆる修行観の素晴らしさを感じますね。
なるほどそういやぁ、教祖様は、御自分が取り組まれた、いわゆるお百姓を、熱心になさった、確かに。しかも熱心になさったけれど、その、熱心になさっただけではなくて、それを有り難く、熱心に取り組まれた、ということ。
もう百姓てんなんてん、いやいやといったような、思い、というものが、御伝記を拝聴いたしましても、まずない。
とにかく、勿体無い勿体無い、と家業の行に取り組まれた。
休み日だからというて、ね、天とう様に、相済まんというて、そのお仕事に取り組まれた。
それが教組の修行であった。
ですから、ましてやそれが、麦つくり、米つくりの上には、その精神が現わされた。もう有り難い有り難い、勿体無い勿体無いで家業に取り組まれた。
自分の、いわゆる天職に対してです、ほんとに忠実であると同時に、それをいかに有り難くいただけるかというところに修行があるとです。
ね、どう見ても自分は、その仕事に対して、有り難いとい言う心が、湧かん、ただきついばっかり、まるっきり砂をかむごたある、それでもこれが仕事じゃけん、せにゃならん、やっとかっと、ね、いわゆる食べて行くために、仕方がないからその仕事をしておる、というようなことでは、家業の行にならんのです。
どがしこ頑張ったちゃ、ね、それをね、いかに、いかに有り難くいただくかということなんです。
ね、そのことが有り難くいただけていくことのために、修行するのです。
自分は、自分の頂いておる仕事に対してどれほど、有りがたいというものを持っておるかと、ね、いわゆる、楽しゅうありがとう、嬉しゅう、その家業に取り組むということが、お道の信心でいう、行なのであります。
家業の行です。ここんところを今日、私はっきり分からして頂いた気がいたしますですね。
金光様のご信心が、ね、参ったり拝んだり、そげん毎日毎日、参らんでん、家業の行ちゆちゃるから、家業を一生懸命することが、行で、とまあ、そう言われれば、ほんにそうだと思い、そう思うとる人が沢山、あろうと思います、ね。 それをどれほど有り難く受け、有り難く頂、いわゆる嬉しゅう、楽しゅう、有り難くその行をさせていただいておるか、ところが実際はなかなか有り難いものが沸いてこなかったり、嬉しいと思われなかったり、ね、その自分の仕事に取り組ませて頂いておる、その取り組む仕事を、どれほど有り難く頂くか、また、有り難く頂けるために修行をするのです。
ね、無味乾燥な、例えば仕事振りというようなものが、いかに、せっかくの家業の行と仰るのに、家業の行になっていないかということが分かります。
そこでやはり、そのお百姓さんなら、たとえば、鍬一つ使わせていただくでも、私、善導寺の原さんに、洋服やさんですから、たとえばミシンに向かう時には、ミシンを拝んでから、ね、自分の仕事に使わせていただく、小道具に到るまでを、神様、只今から、という気持ちで、拝んでから、ね、自分の使う鍬を拝みながら、お礼を言いながら、使わしてもらう、そういう中からです、私は有り難い、勿体無いといったようなものが、稽古をしていくうちに段々段々ほんとのものになっていくのじゃないでしょうかね。
今日も結構な御用させてもろうて、有り難かったということになるです。そしてこげな有り難い、御用はないということになるです。
その有り難い御用が、子供にも孫にも受け継がれていく、しかもそれが、家業の行としてのおかげを、いくんですから、それに仕事の徳が付かないはずがないですね。
有り難い勿体無い、ですからもうほんとに金光様の御信心の、この行というのは難しいですね。
水や火の行なら、大したことはなかですね。ね、どんなに考えてもおかしいのは、たとえば水をかかったから、まあ、いうならば、火の行をしたから、おかげを頂くというのだったら、それはやっぱ、おかげを受けますけどね、実際は、心がやっぱりこう、集中しますからね、ね、けどもそれではね、人生というか、その、もう、プラスするものが、何にもないです。ね、たとえば、どうきょうする、ほいでまあ、水かぶって神様仏様に願う、なるほどおかげで病気は治った、それだけなんです。
ね、どこまでもやはり此の方の行は家業の行であると同時に、表行よりは心行と、と仰せられますように、心行を重ねていくところにです、また、今日、頂きます家業の行というものがです、家業そのものをどれほと、有り難く頂くかという稽古をするから、自分の心がいやが上にも、有り難いことになってくる。いわゆる和賀心である。
ね、その和賀心が募らせて頂くと、例えば心行とは、不平不足を言わぬこと、と私頂いたことがあります。以前。
ね、いわゆる不平不足を言わぬこと、それが心行なのだと。ね、例えば私共、日常生活の上から、不平不足を言わんで済む、不平不足の影が段々薄うなっていくに従って、有難いというものが勿体無いというものが、段々募って来る、そういう修行をさせて頂いて、おかげを受けるというのであったらです、ね、もうほんとに幸せ、幸せ本当の意味においての幸せに向かって、家業の行を通して、幸せになっていけるということが、分かるでしょう。
ね、いやが上にも有り難い勿体無いという心、いわゆる、和らぎ喜ぶ心が、段々募っていくから、これはまた、いやが上に、和賀心におかげは付いて来るのであります。
おかげは和賀心にあるのです。
ね、だからこそ、自分の頂いておる仕事に対してです、どのくらい実意丁寧であらなければいけないかということが分かります。
ろくそなことでは、私は喜びは伴わないと思う。
ね、そのようにして私共の心の中に、有難いというものが段々、広がっていく。
ね、一つ本気でね、頂いておるその家業を、おろそかにしないで、それを実意を込めて、例えてお百姓さんなら、お百姓さんがです、ね、もうそれこそ花畑のように綺麗に、畑がしてある、草一本はえてない、たとえば、鍬を使わせて頂く、鎌を使わせて頂きながらです、ね、たとえばきれいに、その花畑のように、綺麗に、その出来上がっていくというか、その仕事を終わらせていただいた時に、それを眺めた時にです、はあ、今日も良い御用をさせてもろうたと、私は思わず思うだろうと、は、行って見りゃ、草ばっかり、もうざっとしちゃある、もうこれはたとえば、おうちで、なら、婦人の方達が、炊事をするでもそうです。
ね、お風呂場を例えば女の方達がまあ、一番最後に入られるとしますか、ね、そしてそれこそ、今日一日ここで皆さんが、沐浴させて頂いてのであるから、そのことのお礼を申させて頂きながら、きれーいにお掃除を仕上げて、終わった時に、思わず風呂場を拝まずにはおられん心が、おのずと生まれてきますよね。
ほりゃもう、てんで、石鹸な、向こうのほうにちらけちゃる、たわしなこっちにこうおいちある、ふたはこう斜めにしちゃる、そういうところで、有り難いものが湧くはずはないです。
ね、そこんところをです、私はすべてのことに、実意を込めてと、今、現金光様が仰るように、自分の手元の所を大事に、全てのことに実意を込めて、まいっておりますとです、そういうことが有り難うなってくるんです。仕事の、いわゆる現場がです、いわゆる、ね、その職場がいよいよ、ね、聖なる場になってくるわけです。
ね、私は家業の行とは、そういうことだと思う。
、私は今日、この御理解第三十九節というこの三十九というところからね、いわゆる今日はこの、家業の行というものを有り難く頂かなければ、行にはならんということを、今日感じさせていただいたんです。
はあ、もう、神ながらな事だな、こう、御教えのこう、並べ方でもね、これはいつもそう思うんです、三十九節、三十九ちゅうことは、サンキュウということですからね、有り難いという、有り難うということなんですから。
その有りがとうにつながっておる、家業の行でなからなきゃ、もう一生懸命がまだしよる、一生懸命やりよるというだけでは、決してそれは、家業の行にはならん、家業の行になるからこそ、家業にだけ、家業によって徳を受けるのであり、いよいよいやが上にも、有り難い勿体無いという心が、つのってくるということ。
ほんともこりゃ、ろくそなかもんはおかげ頂ききらんちゅうが、ほんなこつだと私は思いますね。ほんとにその手元の所を実意を持って、現場において、仕事の現場、自分の働く現場においてです、そのことを大事にしなければならないかということが分かる。
ね、そしてその有難いというものを、いよいよ深いものにしていく、いよいよ広いものにしていく。
昨日、一昨日、私の、おばの婿ですから、やはり義理の叔父になります。が、あの、七十幾つで、亡くなりました。それが、今日がお葬式なんです。その知らせを受けましてから、まあ、子供からでもあんまり大事にされない、ですね、ほいでここにちょいちょい、そのまあ、不平不足言いに、まあ、やってきま、最近は、やって来よりましたけれども、とにかく人に大事にされないという人は、大事にされないもとをちゃんと、つくってるですね。
ね、・・?私の修行中の時分に叔母が、内緒でお金を貸してくれた。それをその、私に貸したことが分かったもんですから、もうその私に、金取りくれと、そら、私をうちではいわれんもんじゃから、私を呼び出しといてから、もう表でもう、いやらしく言うてからその、金を返してくれって、もう、ほんとに貸してもろうてから、もう、かえっておえんたる感じですよね。あんたがた、そげん、あんたもう、仕事もせんで、神様神様ちゅうとっちゃ、あんた、金が向こうからやってくるもんの、ち、それが分とるなら、催促しなよかろうばってんか。
もうとにかくまあ、あの、催促するんです。ですからもうその、昔から、その人に対してひとっつも、感じよいとか、快いものを、感じなかった。ところがいよいよ亡くなったとこう、聞かせて頂いてですね、その御霊様に対してから、こげん気持ちじゃ、お葬式にも参列、まぁ、今日は、石井さんところの五十日祭がありますから、ちょうど時間が一緒になるんです。それで家内が、まぁ、変わりに参りますわけですけども、まあ、帰りに、久留米ですから、お悔やみによらせていただこうと思う、それを受けましてすぐ、花をお供えしたいと、それから、そのまますぐ、家内と妹でお夜食を持って、まぁ、お通やに参りました。いろいろせっかくさせて頂くならですね、その、なんならんことに、・・?してはならないと思うですからね、私神様にお願いさせて頂いた。そしたらね、おじがまあ、幾つぐらいじゃったでしょうかね、まだ若かった、三十ぐらいの時分でしょう、叔父が、私がまあ、それに対する子供んときですから、まあ、十、かそんくらいな時じゃなかったでしょうか。椛目から、母の里が麦生ですから、車力を引っ張って、この山辺通りに、・・?引ぱって行ったことが、夏の暑い日でした。ちょうどどっか、・・?とかあのあたりです、もちっとこっち来たとこじゃったか知れませんけどね、清水が出るとこがありましてね、そこであの、冷たいところてんを作って、売ってるとこがありました。そこまで行った時に、その叔父がね、そいっちゃん、ここでところてんを、いっちょ食べさせよ、ち言うちから、もう暑い、そこで涼ませて頂いて、ところてんを、呼ばれたことがある、を思い出したんです。そん時に大変うれしかったです。
ね、嬉しく美味しかったです。そん時のことを思わせていただいたらね、いわゆる何十年前に嬉しかったその叔父から、ところてんを、一杯おごってもらったことが、嬉しかったことを、思い出させて頂いたら、それから、限りなく、有り難いものが広がってくるんですね。そしてそこに、御霊様の喜びを受ける感じがしたんです。
ね、それでたとえばあの、すぐ、電話をしましてから、お花を、あのことやら、色々、お供えのことやら、色々とあの、させて頂いて、ほんとにあの、信心ちゃ、向こうが向こうじゃから、こっちもこっちであったら、有り難いな、と言うものは段々、しぼまっていくですね。
私共周囲にそういうこと沢山、ございましょうが。これは家業ではなくっても、家業をさせて頂いて日々、生活の中、私共人間生活の中にです、そういうようなことが、ある、ね、ですから、私共、今日も申しますように、いよいよ家業の行を通してです、有り難いものを深めていき、そして広めていこうと、こういうのです。
それを自分で広めていく人が、あん奴は、好いとるばってん、これは嫌い、もう嫌いなもんには、もうけんもほろろ、これでは有り難いばってん、ならもう、いよいよ狭もうなってまいります。
なるほど、あの人から、暖かい言葉の一つも懸けられたこともなからなければ、別にどうでもないでも、縁があるんですから、縁ある限り、そこを全部、自分の有り難い場にしていかなければ嘘です。
私は、その有り難い場というものを広げていくということはです、そういう工夫がいるようですね。
向こうが向こうだから、こっちもこっち、例えばお歳暮ならお歳暮ですね、夏にまあ、あちらこちらに、皆さんも、なさいましょう。
私も今度、あるところに、まあ、毎年のように、お歳暮をさせて頂こうと、まぁ、形、形式、形のとおりのことを、まあ、さしてもらう、だからこれではね、つまらんです。
沢山な金、使って、ね、これはね、一年中、一年、一年中のその人に対するお礼だと、ほんとに思わせていただいたら、ね、惜しいということもなからなければ、ね、詰まらん形式だとも思わない。
もう例えばそれが、なら、鰤なら鰤一本、送らせて頂くにしましても、できるだけ立派なものを、送ろうという気が、起こってまいります。
ね、家業の行、例えば使い物一つする中にでもです、ね、それがほんとに、その人に対するところの、その家に対するところの、それがお礼ということの、気持ちになったらです、それが有り難く出来る、それこそ神様にお供えをするような気持ちでできる。
ね、やはりそこには工夫がいる、お礼と思うたら、惜しいこともなからなければ、形式とも思わない。ね、有り難い、勿体無いという・・?段々そのようにして広がっていく。
そういう工夫が、いるのです。家業の行の中に、ね。
そういう意味でとても、私共はおかげを頂いておると思うですね。人が取次ぎ、助け合えることのために、例えば御用させて頂くということが、なんと素晴らしい御用頂いたもんであろうかと、なるほどその証拠に、御結界に座らせて頂くことが、有がとうして有り難うしてということになってくる。なるほど、この家業の行がね、このように有り難いものになってくる。勿体無いものになってくる。なるほど金光様の先生が徳を受けていくはずであり、おかげを受けていくはずだということなんです。
ところがなら、金光様の先生がです、徳を受けておるとも思われない、おかげを受けておるとも思われない、という先生がそこにあるとするならばです、御結界なら御結界、神前奉仕をするということに対してです、ちがわん、有り難いと思うてござらん証拠です。
家業の行がでけておらん、ただ勤めてござる、ということになるのじゃないでしょうか。
ね、皆さん達でもそうです。皆さんがなさるその仕事が、ほんとに社会に貢献する、ね、とまぁ結び付けなければなりません。
ね、その御用です、なるほど天職として頂かなければなりません。もうこげな商売は、もう、いやいやちゅうごつあるこつじゃでけん、ね、そこにです、んなら、この商売に、この仕事い取り組まして頂いて、いかに、どうあれば、有り難くなれるかというところに、第一気がつくのが、実意丁寧が足りないということになるのじゃないでしょうか。
もっともっと手元の所を、大事に、実意丁寧神信心が、そのまま家業の上に現れてくるから、どうもあの店は違うと思いよったら、やはり信心しござる、といったようなことになってくるのじゃないでしょうか。
そういう実意を込めて、野菜つくりをするから、どこによりも綺麗に出来る、なるほど信心しござるから、違うな、ということになってくるのじゃないでしょうか。
ね、その仕事に対してどこまで私共が、有り難くそれを出来るか、というところの、稽古ですから、限りがありません。いよいよ有り難うならして頂いて、ね、家業の行をしっかりさせて頂きたい。それは家業の行を一生懸命、取り組んでがま出せということではなくって、それをいかにどれほど深く、広く有り難いものになっていくかというところに、焦点を置いて修行をさせてもらう。そして有り難くなれんなら、どこに有り難くなれんのか、ということを、思わせてもらう。
儲からんけんかもしれん、ね、お野菜つくりが、もう、野菜が安かなら、もういくらしたちゃ同じこと、砂かむごたあるしごつということになるかもしれません。
ね、けれどもそれが、只今申します、仕事が沢山出来るとか、儲かるとか言うことに、ではないと。それが、信心修行だと思うたら、有り難いのです。
ね、だから信心修行に、力が、徳がつかないはずはない、またおかげが伴わないはずがないということになります。
いかにそれを有り難いものにしていくかというところに、家業の行ということが言われる。なるほど、教組金光大神が言われる、家業の行というのは、実を言うたら、火や水の行よりもっと、もっともっと難しいことだなということ。しかも家業の行をさせて頂きながら、ね、いよいよ和賀心というのは、募りに募っていくものだということが分かります。
ね、そこに焦点を置いて家業の行にそれぞれ、取り組ませて頂かなければいけません。
どうぞ。 大坪かよこ